ロビンソン・クルーソー、エルンスト・ユンガー、グラストンベリー・ロマンス
940226 ロビンソンはアフリカへ、人気の秘密、『世界の書物』
940227 仏軍兵士の死体、聖杯を殺す、老Crow、ロビンソン難破、Powysの行動嫌い
940228 無人島のユートピア、Powysの気弱さ、『さだまさし 時のほとりで』、Elphinという少年
940301 楽しい記憶(GR)、聖書(RC)、New Voices、Sympathy(NV)
940302 人に好かれたいPowys、聖書発見(RC)、beautyとPrettiness(NV)
940303 ユンガーは弁の立つ右翼、『ラブクラフト全集』(内向性と水棲人間)、ロロ・メイ
940305 『灰色の石に坐りて』(同時代がもっている未知なる部分)
940306 ロビンソンの弾丸、文明の終焉/次段階、ユンガーの子供時代
940307 事実を極論の証拠にするユンガー、暴力を必須の部分とする世界観、信仰の書(RC)
940308 『壁の中のねずみ』(観察者から怪奇の具現者へ)、生まれつき根無し草のPowys 7
940309 感覚にとって目的は邪魔(Powys)、社会に迎合するな
940312 宗教的経験は既知、Tollerの鉄棒(GR)、
940313 TollerとMad Bet(GR)、スタートレックのこと
940314 『北回帰線』(ミラーの混乱とデフォーの理性)、データ(STNG)、Henry
Adamsの劣等感
940315 規格主義の下僕(HA)、西欧思想の結実は1300年付近、Powys,Junger,Adamsの共通点
940316 人食い土人(RC)、存在と自然の開示(Jgr)、人間中心主義から離れたJunger,Powys
940317 文明の廃墟に住む私(Jgr)、土人を殺す資格なし(RB)、スペイン人への嫌悪
940320 鋭い切れ味と野生の茫洋への回帰の対照(ユンガー)
940321 volcanic precision、建設と破壊(ユンガー)
940323 時代の変化に適応できないRichard(ユンガー)
940324 『新源氏物語』『太平洋探検史』『奴隷と奴隷商人』『史記』『オルテガ』『生と死のウィーン』
940330 Glass Bees結末。「現代は思想の端境期」(オルテガ)
940401 第一級の精神活動(信仰-->科学)、フライデー登場
940404 スペイン人を土人から救う(RC)、Will
Zoylandの浮気(GR)
940406 ブーバー「我VS汝」、ロビンソンの結末、ヨーロッパの鎖国
さて『ロビンソン漂流記』であるが、今47ページ、吉田健一氏のおちついた訳(新潮文庫)である。ロビンソンはブラジルの農園事業がうまくいきかけていたのを又もや放り出して、航海に出る。目的は何と奴隷の買い入れ、目的地はアフリカである。『世界の書物』(紀田順一郎、朝日文庫)によれば、この本の初版は1719年。主な読者は英国の中流階級だろうが、当時の彼らにとっては奴隷を買いにアフリカに行くということは道徳的になんら非難すべきことではなかったのだろう。
『世界の書物』ではこの本の人気の理由を次のように分析している、「18世紀初頭、新興ブルジョワジー台頭記の英国社会にとって、ロビンソンのたくましい生活力と現実主義、創造力は、一つの理想像であった。スコットランドと合同して、大英帝国が成立してからまだ10年余、多くの冒険的投機商人は富みを求めて海外に進出し、すでにニューコメンは大気圧蒸気機関を発明して、産業革命への道を開きつつあった。このような発展欲が社会を支配しているとき、ロビンソンのような楽天的現実主義者が社会のヒーローたりえたのは、当然すぎるほど当然なのである。」(p181)
たしかにこれはこのとおりだろうが、それよりも私には、著者のデフォーが読者たち、つまり冒険に出かける勇気のない大半の英国人の気持ちを逆なでしないように、しきりとロビンソンの口から冒険生活を航海するせりふを吐かせていることの方がおもしろく感じられる。
「Storm
of Steel」。若きユンガーはついに前線に達し、仏軍が掘った塹壕に入る。疲れて眠り、悪臭で目覚めると、近くに仏軍兵士の死体が木に寄りかかって坐っている。眼窩は空洞となり、髪の毛は少ししか残っていない。よくみれば死体はそこここに、死んだときの姿勢のまま打ち捨てられており、中にはポケットが裏返され、空の財布がそばに残っているのもある。どうやら仏軍は、撤退するまでの数週間、戦友の死体を生めることもしなかったらしい。
これはちょっと読んでいてショックだった。私は、兵士というものは以下に激しい戦闘の最中でも、戦友の死体は埋葬するものと思っていたからだ。
よく思い出してみると、アフリカの内戦などでは死体がころがっていたようだ。私の印象は映画やテレビの影響かもしれない。
「A Glastonbury
Romance」の方は今12月10日の夜で、眠っているPhillip Crow、John
Crow、Tom Barter、Dave Spencerなどの魂が、聖杯(Grail)を殺そうと、昼間の敵対関係を忘れて一体になるというところで、強風にちぎられた蜘蛛が今はこの星座、次はあの星座という風に星々をかくしては又吹き去る。魂の集団はその下、Glastonburyの岡々の上空のどこかに漂っているのだ。聖杯はAbsoluteの一部だから、そもそも殺すことはできないが、大きな打撃を与えることはできる、という著者の記述は、かつて私が夢に見た宇宙生物と似る。この侵略者は不死身だが、大きな打撃を受けるとしばらくは立ち直れないのである。しかも特定の形がない、というところも、Powysがここでいう聖杯のイメージに合っている。時間と空間を越え、Powysと私の魂の間にも何らかの連絡があるのだろうか。
この本は登場人物が多いので、前に出てきた人が再び出てきても、もうどんな人物だったか憶えていなかったりするのだが、何回も出てくるうちに次第に見当がついてきた。
まず老Crow。この人が死んだところから話が始まるのだが、Elizabeth Crowの父、Phillip、John、Maryの祖父である。老Crowの遺産が殆ど全部説教師兼秘書のJohn Geardに遺されたところから話が展開していく。ところで話の始まりは確か3月ごろで、今750ページ近くまで来て12月10日だから、最後まで読むとちょうど一年分ということになるのかな。
メイドがたくさんでてくる。Tossy
SticklesはElizabethのメイド。Sally Jones はGeard家のメイド。EmmaはPhillip
Crowの家のメイド。Euphemia Drewという老婦人はおそろしく由緒のある屋敷に住み、MaryのほかにLilyとLourieの姉妹がメイドとして一緒に住んでいる。Maryは最近、Johnと結婚して屋敷の外に移り住んだが、そのときのEuphemiaの狂乱で、彼女がMaryに恋していることが判明する。
ロビンソンはやはり難破。大波の中を必死で岸に泳ぎつく。生き残りは彼一人。沖には砂州に乗り上げた船が見える。多分船から工具などを引き上げて、これからの長い無人島生活に備えるのだろう。遠浅の海岸で何度も波に追いつかれ、飲み込まれながらも岸に向かってあがき続ける。ついに上陸できた喜びを、死刑囚が執行直前に許されたような、と表現している。
ところで、こうやって内容を思い出して書くのと、本を見て引用するのとは感じが違う。例えば940226に紀田氏が18世紀前半の英国の雰囲気をロビンソン・クルーソーの人気の理由として挙げた文章を引用したが、それまでの私の思考の流れとは異質で、浮き上がって見える。そうかといって思い出して書くほうがいつもいいとも限らない。自分の慣れすぎた思考の線から外れることができなくなるような気がする。
『Confessions of
Two Brothers』はついにJ.C. Powysの行動嫌いがもろに宣言されている。「(拙訳)私は生来はでな行動を嫌う。実際のところ、はでであろうとなかろうと、全ての行動を私は嫌う。」(p66)そしてこの後で、自分は暖かい潮溜まりのそこで陽光を浴びて浮遊する虹色のくらげになりたい、というのである。
p65には、自分は楽しみ(pleasure)を追及するエゴイストであるが、他人のライフ・イリュージョンの邪魔もできるだけしたくないので、大分不都合な目にも会う、と書いている。たとえば退屈な人と付き合う羽目になったとき、ハイサヨナラと逃げることが自分にはできない、というのである。これは必ずしも良心のためというより、自分も不快な衝撃を極端に嫌うため、という。
ここで注目すべきところは「自分は面の皮が厚くて人の気持ちなど全然気にせずに我意を通す人々のことをうらやましく思いかけることがあるが、実際にはうらやむことなどない、何故なら、彼らはその無神経さのために、自分のようなexquisiteな感じ方ができないだろうからである」といった発言である。
ロビンソンは案の定、船から大量の物資を引き上げ、恐ろしく頑丈な砦みたいな住居を作り始めた。あっ、これはフロンティアだな、と思った。私の勘では、デフォーが取材した船乗りはこんなに資材にめぐまれてはいなかっただろうし、こんな立派な住居を建てはしなかったと思う。ロビンソンのこの生活はむしろアメリカの西部の開拓者たちのものだ。そして、開拓者たちの生活がしばしば喧伝されるような苦しみに満ちたものでなく、けっこう楽なところもあったことが、ロビンソンの生活からもしのばれる。早い話、木材にしろ、鳥獣にしろ、島の何もかもが彼の所有物であり、彼は隣人との争いとか、社会の規制とかを顧慮する必要がまったくないのである。
18世紀のイギリスの中流階級から見れば、ロビンソンの無人島は一種のユートピアではないか。又、産業革命の思想的駆動力であるデカルト哲学を純粋に推進できる場所でもある。めんどうな「他我」というものが存在せず、島全体が彼に奉仕するmaterialなのだから。
『Confession・・』。要するにPowysは人に不快なショックを与えるような発言ができないのである。これは徒然草で東人が京の人々について「口先だけよくて、実がない」と非難し、兼好が「いや京の人は気がやさしくて相手をがっかりさせるようなことが言えないんだ。」と弁護するあの感じだ。義父はこの反対の極にある人で、人の気を悪くすることが言えないなんてのはかえって相手に対して友達がいがなく、有害だという。これも十分妥当な意見である。
ところで、私自身はどうかというと、例えば、ついさっき初めての翻訳会社から料金を訊かれ、17セントといおうかと考えたが、つい15セントと言ってしまった。別に今新しい取引先が欲しいわけでもないので、少し高く行っておいてもいいのだが、17という数字が口に出しにくかった。これはPowys的か。しかし、私は話の流れ次第では相手にショックを与えるようなことも言う。ただ、そうした場合はどうも相手が何か積極的な行為を選ぼうとしているときに水をかける目的で発言しているので、好意や変化を嫌うという点、やはりPowys的か。
p67では変化一般についての懐疑について語り、p68では具体例として、場所を変えること、つまり旅行と、状況を変えること、つまり自由を求めての革命的行動への懐疑が出て栗。孤独を求める人間嫌いにとって、一人になれる場所を求めて旅行するのは、帰ってより多くの人間、警察官や税関、盗賊なんぞと付き合わされる羽目になるという。又、自由を求めて革命的行動に出ても、結局は新しい形の牢獄に捕らわれるだけではないかと言う。
自由を求めて他人を犠牲にした場合、予期しなかった愛情をその人間に対して抱いてしまい、苦しむことがあるのではないか、などと言っているのは面白い。Powysや私のような人間にとって、意味のある関係は打撃を受けるところから始まるともいえるので、攻撃者に対するある種の愛情が、当然の怒りの下層に隠れているのはむしろ普通なのだ。
『さだまさし 時のほとりで』(新潮文庫)はさだまさしの歌詞と彼のコメントを集めた本で、裏を見ると90年の12月にデンバーの「本屋」で古本として買ったのだけれど、それから3年余りあまり開いてみたこともない。さだまさしの歌が好きでよく聴くからこの本も買っただけだ。ところが、今日初めて解説をひょいとみたら、辻邦生が書いている。私が日本で最も力量のある作家らしい作家であると認める人である。何と彼はさだまさしと中島みゆきが好きだという。私も一時みゆきさんばかり聞いていた時期がある。奇遇。「明治百年でようやくこんな人が生まれる時代になったのか・・・それは日本の歌の中で聞いたことのないような住んだ笑い声であった。」(p253)今夜はこの本の中の歌を明日美と元太に歌ってやった。とても幸せな気持ちで歌えた。
Glastonburyはまだ12月10日の夜。Elphinとかいう少年が、大きな窓から外を見ている。Sam DekkerがNellのところに見舞いに行くといって自分との魚釣の約束を反故にしたので、この少年はNellを呪っているのだ。彼の呪いはGlastonburyの夜の大気の中でPhillipやJohn
Crowの聖杯殺しの陰謀にも加担している。Nell
Zoylandは結局Samの子を産んだのである。夫のWilliamは子供の父が自分でないことに気付いているのだろうか?
Glastonburyはまだ12/10の夜(p752辺り)。今度はNancy Stickles。この女性はPowysが『Art
of Happiness』で紹介していたテクニックの生まれながらの実践者である。先ずは過去の記憶から楽しい気持ちになれる断片を呼び起こすこと。これは例えば荘厳な夕焼けといったたいそうなものでなくてもいいので、壁に日差しが作る模様とか、そういった些細なものを正確に思い出す、というよりはそのときの自分の感情のあやを再現することなのだ。もう一つのテクニックは『忘れる』ということ。どんないやな経験だって、忘れてしまえばないも同然。Nancyは夫にひどいことを言われて、窓から身を投げたくなっても、その数分後にはお気に入りの椅子に腰掛けて編物に全てを忘れることができる。
ロビンソンは自らの運・不運について神の摂理を考えたり、また忘れてしまったりする。住居の近くに野生にはない稲の苗が生えているのを見て、神の助けと一度は感謝し、次に、にわとりのえさの袋をそこにぶちまけたことを思い出して感謝を引っ込め、その後でまた「いや、ちょうど目の出せるところに米が落ちたのは偶然ではない」と思いなおしたりする。ちょっとおもしろいのは、今までのところ、聖書の章句を引用するということは著者もロビンソンも一度もない。このころの読者にはあまり聖書の知識はなかったのだろうか。ジェームズ王の英語版聖書が出て百年くらい経っているはずだが。
「New Voices」(Marguerite Wilkinson, The Macmillan
Company, N.Y. 1922)に20世紀初頭のアメリカにおける詩作の状況について、巨人はいないけれども、たくさんの詩人がいて、全体としては今までにない活況を呈しているとしている。ここで巨人として挙げられているのはホイットマン、ポー、そしてエマーソン。ロバート・フロストは同時代人として挙げられている。Wilkinsonはこの活況の原因として、「アメリカも開拓時代には実学に極端な重要性が与えられたが、いまや美を楽しむゆとりができた」ことを指摘している。
P7では、詩を楽しむために必要な素質として「Sympathy」を挙げていて、そもそもこれがなければ人生の楽しみがわからない(For
without this capacity none of us can get much out of life.)とまで言っている。詩というものに基本的によそよそしさを感じる私としてはこの発言は気になる。確かに私は「人の気持ちがわからない(姉曰く)というところがあるらしいので。
『Confessions ...』P69でPowysは自分には人に好かれたいという気持ちがバカげて強いと告白している。「(拙訳)本当のことを言うと、私は人が私から尊敬されなくても、好感を持って欲しいという不条理な望みを持っている。」尊敬されなくても言いというわけだ。義父はこの反対で、「俺は人にどう思われようともちっともかまわない」とうそぶいている。最もこの「人」はどうでもいい他人のことで、彼は友達に対しては非常に細かいところまで気を配るのである。
しかしPowysのこの好かれたい欲求は多分、彼の家族や友達に限らず、世間一般の人間も含んでいる気がする。
そうして私は自分自身のことを考える。940228の記述と展開が同じだが、つまり人にショックを与えるようなことが言えない、というのと、淡く人に好かれたいというのは同じことが行動と気持ちの両面で表れているという事なのだ。
ロビンソンは何と長持ちの中から聖書を発見する(940301の記述を見よ)。船から運び出すときに放り込んであったのだが、これまで忘れていたのだ。「神よ私をお救いください、そうすればあなたを讃えましょう」とかいう文句に感じ入った彼は、はじめは救われる、というのをこの無人島生活の窮状からの救い、と考えていたのを、次第に自分の罪深さからの救い、というふうに改めるようになる。自信で震え上がったとき、彼は思わず「神よお助けください」と口走ったが、いったんおさまった後感謝をささげることはなかったと反省する。ここで彼は生まれて初めて聖書を読むのだが、実にこの書はロビンソンの改心の書として読むことができる。
ところでロビンソンは長持ちの中に数冊の本を放り込んだというのだが、聖書以外にはどんな本があったのか、興味深い。
『New Voices』はイントロを読んだ。やはり読みやすい。BeautyとPrettinessの違いの説明がおもしろかった。「(拙訳)Prettinessは心地よく、たわいのない、軽い浮気女だ。しかしBeautyは強く、深く、厳粛で、偉大な母性的力だ。」(P8)美は人生を変える力を持っている、とも。早く詩の鑑賞のところまでたどり着きたい。
『The
Violent Eye』(990213を見よ)はまだほんの少ししか読んでないのだが、著者のMarcus Paul
Bullockはユンガーの思想を取り上げる理由として、ユンガーがちゃんとした言葉で考えを表明できる数少ない右翼である、という点を上げている。Bullockによれば、右翼の運動は米国内でも強いが、暴力の形で表われることが多く、言葉が貧困であるという。彼は同じ危険を民主主義自体の中にも見ている。この辺、彼がどう展開していたか忘れたが、つまりは「Politically correct」でない発言は全て嘲罵を浴びたり、最近のアメリカの選挙みたいに相手の悪口をあることないこと言い立てて票を稼ごうとする事態を見ていると、Bullockの懸念も想像はつく。引用してみよう、「名目上はより進歩的で、人間的な関心をより表現しているようにみえる政治団体が実のところ人間の持つ可能性に対して非常に破壊的である場合がある。それは、こうした団体も言葉と経験の貧困化に依存しているからである。」(P12)
『ラブクラフト全集』(H.P.ラブクラフト、創元推理文庫)の『インスマウスの影』というエピソードを読んでしまった。百ページ以上ある。気の滅入るような形容詞ばかりで描写されるインスマウスの町。P50だけでも荒涼、荒廃、ぐらついている、すっかり壊れて、薄汚い、陰気な、憂鬱、忌まわしくて異常、といった具合。昼食時に読もうとしたらさすがに読さした。しかし、単に陰々滅々でおどろおどろしいだけでなく、終わりの方はオープンエンドで広大な展開の余韻を残している。
人間が水生人に変わっていく、というのは安部公房やうめずかずおにもあった気がする。どうもこの水生人というのは内向的な人間のメタファーであるような気がする。外向型の価値観から見ると不恰好でぎこちなく、表情に乏しいが、内向型は内部に深いもの(時間的な深さと水の深さ)を持っている。そして、自分の水に帰れば、陸上では無様な彼らも優雅に泳げるのである。
『Violent Eye』の言葉の貧困という危惧について。言葉が生の実感とかみ合わないというのはさびしいことだし、盲目的な怒りを蓄積してしまう原因でもある。ここで1980年9月25日にロロ・メイの『わが内なる暴力』から引用した一説を採録しておく(p72)。「コトバに対する深い疑惑と、それが原因でもあり、また結果でもある自分自身及び仲間同士の間柄の貧困化といったものが今日の社会にはびこっている・・・。このアイデンティティ喪失のそこにあるものは、アイデンティティ及びコトバがそこに基礎を置く、シンボルと神話の持つ説得力(Cogency)の失われていることである。」
『Violent Eye』。Bullockはしきりに「自分はユンガーに加担するものではない」と弁解している。そしてまたこれがえらく読みにくい。煙幕を張っているのかそれともこれがこの人のスタイルなのか。どうやら、ユンガーは間違いを犯したけれども、それは政治的なプロパガンダのためなどではなく、あくまで真実を追究しつつ犯した間違いだから、後から来た我々にとって建設的な意味を持っている、ということを言いたいらしい。また、この正直さとでも言うべき特質について、Bullockはハイデッガーなどの職業的な思想家よりもユンガーのようないわば素人の方が研究の対象としていい、と言い、「(拙訳)ユンガーはためらうことなく職業的な分野の間の境界をよぎり、自分の結論に到達するまでの理屈付けにそれほど頓着しない。しかし彼は自分をそこまで導いた道筋を決して隠そうとはしない。」(P15-16)ここで私は自分もこの特権をユンガーと共有していることをうれしく思う。
この読書ノートの前身の日記の80804に、『灰色の石に坐りて』(対談集 辻邦生、中公文庫)の感想があり、そこに昨日引用したロロ・メイに通じる引用があった。「同時代がもっている未知なる部分というものがありますね。それをいかにして本質的な形に、意識されるものに変えるかという仕事---それが文学者の仕事だと思うわけです。」(p49)そういえばトルストイの言葉として、「自分はある一つの感情を表現するために一つの小説を書く」とかいうのがあった。ここでいう「感情」も以前には意識されたことのない感情を意味しているのだろう。
ロビンソンはしょっちゅう銃で山羊とか鳥とかを撃っているのだが、どんな銃だったのかな? 火薬がいつかなくなる心配はしているが、弾丸のことは何も書いてない筒先から火薬を入れて、その上から石でも詰めて撃ったのかな。(後の方で、島の探検に弾丸も持った行ったとある。)
『Violent Eye』は何故ユンガーを研究対象として選んだかという言い訳がやっと一段落して、この本の目的とユンガーがどうからむのかを説明し始めた(p20)。「本著の底流となる基本的な問いかけは、西欧文学の伝統の現状ということである。」
古代から人類は「represent
reality(現実の表現)」という企てを営々と続け、その進歩が頂点に達したのが19世紀、しかしそこでその企ては放棄されてしまう。この歴史的な転換について扱った本としてMimesis(Erich
Auerbach)と『Art and
Illusions』(E.H. Gombrich)が挙がっている。前者はより一般的、後者は絵画に焦点を絞っているらしい。とにかく、この転換の意味についてユンガーは若いころから考え続け、Bullockもそこに興味を持っている。私もこれはおもしろいと思う。ただし、私の見るところでは19世紀に頂点に達したのは時間と空間の言葉に還元できる類のリアリティであって、それ以後はリアリティのほかの側面への探求が殆ど手探りの状態で始まっているのではなかろうか。
ユンガーはこの転換が一つの文明の終焉を画するのか、それとも一つの運動の中の次の段階への以降なのかを考えているらしい。
ところでP21にはユンガーの生い立ちについておもしろいことが書いてある。子供のとき、ユンガーはまわりの大人のやることが余りにおろかしいので、これはきっと子供の前でふざけているだけで、子供のいないところではもっとまともな生活をしているのだろうと考えた。また、学校では旅行記や冒険記ばかり読んでいて、成績はひどく悪かった。
これを読んでうれしくなった。ユンガーが自分で考えることのできる人間であること、そして私が彼をみつけたということは私も捨てたものではないと思われるから。
私の悲惨な大学院時代にも別の光を当てられるのではないか。つまり、博士論文を目標としていたのなら単なる失敗だが、あの当時、半分意識的に何かほかの事を、いや、科学研究ではあるが、別の意想を私は追及していたのではないか。実験装置に凝り、実験に凝り、最後には文章家に凝って、それぞれの過程で何かを学んだ。だから次へ移行していったのだ。
ユンガーに対して私はスーパーマンコンプレックスを持っているようだ。『Violent Eye』P22〜P23によると、ユンガーは第一次大戦ですごい勲章をもらい、戦後は右翼雑誌の執筆・編集をしている。『Storm of Steel』で文明も上がった。しかしナチスの台頭と共に隠遁生活に入り、昆虫と庭の手入れに凝った時代がある。
第二次大戦ではCaptainとしてパリ駐留軍の司令官の下についた。このときの日記はおもしろいらしい。パリの文化を存分に楽しみ、芸術家や文人とも交流があった。ピカソやブラックにも会っている。
ユンガーの文体について:「(拙訳)ユンガーの文体を見て直ちに目立つことは、一方で具体的な事実(例えば昆虫学者としての科学的な研究や日記における事象の観察)に極端にこだわりつつ、そうした事実を一般に受け入れられている人間的現実のイメージから遠く離れて矛盾する人生の次元の証拠として解釈しようとする顕著で一貫した傾向が他のどんな著者よりも強いということである。」(p24)
つまりごく普通の具体的な事実を途方もない理論の証拠として使う傾向があるということになる。ここで比較の対象として挙げられている文学者(ジェームズ・ジョイスなど)の中にカフカもいて、彼らの場合、自らの文学を世界のゆがみに合わせて形作ったが、基本的な世界観はそれほど一般の理解から絶していないという。
しかしこのユンガーの途方もない理論、世界観とは一体どんなものなのか。Bullockによればそれは暴力を必須の一部分として取り入れた世界観であるという。しかしそれなら一般に受け入れられた人間的現実のイメージとそれほどかけ離れているとはいえない。
『世界の書物』のロビンソン・クルーソーの項の後半部には、この書が信仰の書として広く受け入れられたことなどがちゃんと書いてあった。
ところでロビンソンの方は米と大麦をどんどん作り、土器を焼き、今度は島の他端から見える陸地まで行こうと舟(丸木舟)を作るが、重すぎて海辺まで運べず、挫折する。しかしとにかく生活は安定してきて、「私は現在用い得る凡てのものを持っていたので、何も欲しいと思うものがなかった。私はこの島全体の領主で、この私の領土に対しては、王、あるいは皇帝と称することも私の勝手だった。」(P141)
ラヴクラフトの2番目の話『壁の中のねずみ』を読んだ。家系への執着、ある種の物理的印象が異世界への橋渡しとなること、はじめ単なる観察者であった私がしばらくもやもやとして状態を経て怪奇現象の具現者と化すること、など、最初の話とパターンが似ている。あのズッコケのピルトダウン人が大真面目に引用されているのはごあいきょう。
『Confessions ...』John(Powys)はしねば何もしなくてもいいから死ぬのはあまりいやでないという。「(拙訳)私は常に行動へとせきたてられる、そして行動は私にとって忌まわしいものなのだ。」(p91)この「行動へとせきたてられる」というのは共感。私なら「行動に引きずり込まれる」というだろう。彼は行為を憎むが変化は必要で、同じ場所に長くいたくない。所有欲はなく、自分の本でさえ憎んでいる。また、近所の人と顔見知りになってあいさつしなきゃならないとかいうのもひどくいやだという。「私は生まれつき放浪者、無政府主義者、そして根無し草なのだ。」(p91)
感覚を楽しもうとする者にとって、目的をめざした行動はじゃまになる、というテーゼは私とJohnの間で一致しているようだ。「(拙訳)私は感覚を楽しみ、感覚を分析し、そして感覚を言語及び文学的レトリックに翻訳するように生まれついている。」(p101)と宣言する彼は、同様の気質を持つ若い読者に向かって、自分の本性にさからってまで「(拙訳)健康な心をもった、元気で有用な市民」になろうと努力することは得策でないと忠告する。肉体的な運動や規則的な活動によって自らの「軟弱な」感覚性を克服しようとすることは、社会を自然の上に置こうとすることであり、人間を生み出したのは社会ではなく自然なのだということを忘れないように、とさらに説く。
他人の本を読むのに疲れたので自分の書いたものを読み返している。牛がよくやる反芻と言うやつだ。88年に中村真一郎の評論集(5冊)を読み、引用を試みたのが青いスパイラルノートに収められている。自分で書いた感想のところにすごいことが書いてある。「世界は先へ進む。我々がふと宗教的体験に大きな安らぎを見出すとしても、それが我々の進む道であるとは限らない。我々の進む方向を規定しているのは何かしら未知のものであり、それに対して宗教的体験は既知のものである。」(880420の項)
Glastonburyはようやく12月11日の明け方(P778?)になっているが、10日の夜はちょっとこわい展開があった。Red RobinsonがSt.
Michael's InnでSally
Jones(Geard家のメイド)といちゃついた後、宿の主人がSallyを送っていった。そこへFinn Toller(Codfinともいう)というこそ泥が現れ、Redが演説で「ティランサイド(暴君殺し)」という言葉で暗にPhillip Crowを殺ってしまうようなことを言っていたのを「自分がやる、ピストルは怖いから、鉄の棒で殺ってやる」としきりに口説く。Redはあわてて「あれは言葉のあやで、実際に殺したら犯罪だ。とんでもない」となだめようとする。Redはどうもこのうすぎたない、目のうるんだ、よだれたらした男が苦手である。
Tollerが「鉄棒、鉄棒」と言い募るので、Redは共犯として絞首刑になるところまで想像して震え上がる。さっきまでSallyを膝に乗せていたこの部屋で、またなんということが起こってしまったのか。これは皮肉な話で、これまではRedがこの小説の中で一番強く憎しみを発散していて、やることなすことPhillipへの憎しみから発していたのに、ここでは女性と親密な時間を過ごしたあげく、こんな訪問者を迎えることになる。
運命の皮肉はこれだけでは終わらず、今度はFinn Tollerが大変な目にあう。Redを散々困らせてから引き上げようとしたTollerはちょっとこそ泥をして行こうかと裏へ回る。そこで、2階の窓から手招きしているMad Betと目が合ってしまったのだ。このBetというのは老いた狂女で、いつもボンネットをかぶっているがその下はつるっぱげの頭である。Mr. EvansとJohn CrowとSam Dekkerがページェントの舞台となるThor(?)の岡に下見に登ったとき、YoungというMrs. Leggi(売春宿の女主人)の小遣みたいな老人に連れられてBetも来ていた。Mrs. Leggiの家のパーティ(年に一度、大変多くの人々が招待される)にもBetは来ていて、なぜかJohn Crowを大変気に入ってしまうのである。
Tollerはこの狂女に頭が上がらず、彼女の命令なら何でも聞こうとする。風に悩まされながらもTollerはBetを2回の監禁部屋から脱出させ、2人でThorの岡のタワーのところまで登る。風をさえぎる内部に入った2人はろうそくに火をつける。ここでBetはもう1本のろうそくを火であぶってやわらかくし、人の形にこねてから恐ろしい呪いの言葉を浴びせて、足で踏みにじってしまう。彼女が呪っていたのはMary Crowであり、Maryが昼にはEuphemia Drewにかしづき、夜はJohnに抱かれるのを「売春だ!」と非難する。つまりBetはTollerにMaryを殺してほしいらしいのだ。TollerはPhillip Crowの頭を鉄棒でかち割るのを想像すると官能的な歓びを感じるけれども、Maryを殺すなんてことはできるはずもない。おずおずと断りの言葉を言うTollerをBetは冷たくさげすみ、彼はすっかりしょげてしまう。
この辺の狂人ゆえの強烈な、鋭い感情にTollerがすっかり降参してしまうのはよくわかる気がする。私はこういう、精神的なボリュームの大きい人間が他人を引きずるのはきらいだが、Mad Betはいかにも無力な老女なのでまあ許せる。
こういうエピソードの数々の上を風は吹き抜けていき、沼の臭いやこけの胞子なんかを乗せて、はるかStone Hengeまで達してそこで凪ぐ、というのだが、この風の叙述はいろいろ暗喩や隠喩がありそうでよくわからない。
この読書ノートでテレビ番組を扱うのいうのは考えたことがなかったが、やってみたい番組が一つある。StarTrek Next Generationだ。オリジナルのスタートレックも再放送で殆ど全部見たが、NGの方はたしか私たちがボールダーに越してきたころに始まり、最初の数話は見落としたが、後はずっと密付け、見落としたのも再放送で全部見たと思う。NGが今多分120話を越えている。これだけあきずに見続けた、ということだけでも感想を書き付ける理由は十分ある。
去年からDeep Space 9という姉妹編が始まり、これも欠かさず見ている。
古本で1863年というエマーソンのエッセイ集を見た。$6.50である。こんなに古い本が本当に$6.50なら買ってもいいかなと思ったが、文章がけっこう読みにくいので止めた。
昨日だったか、本棚からふとヘンリー・ミラーの『北回帰線』をつまみ出して拾い読み、『ロビンソンクルーソー』との対比に微笑む。ロビンソンは本当に理性的、一方のミラーはそれこそ酔っ払った鯨が自分の臓物をぶちまけているような混乱である。混乱といえばガルガンチュアだって相当なものだが、ラブレーでも風刺の根本はわりと理性的ないきどおりで、対するミラーのはそういう背骨がない。デフォーやラブレーが据付カメラで世の中を撮つすとすれば、ミラーは小型カメラをひっさげて現場に突進し、けつまづいてころんだ自分の足のアップを撮ったりするのだ。
STNGでもっとも魅力的な登場人物はデータである。データはアンドロイドだが、人間に少しでも近づこうと努力する。あるエピソードでは、笑いというものを理解しようと、コメディアンのまねをしたりするが、惨めな失敗に終わる。そうかと思うと、ブリッジで彼が何気なくいった極めてまじめな一言がどっと受けたりするので、彼は余計混乱する。
『The Education of Henry Adams』(Henry Adams, The Modern Library, Inc. 1931)これはどこかにおもしろい本だと書いてあったのをなんとなく憶えているのだが、さてどこだったか。中村真一郎の評論かな。とにかく、アメリカの大統領を2人も出した家系に生まれた文人の自伝、というのが見所。イントロを見ると、Henryは1838年生まれ。ひいおじいさんが二代目の大統領で、祖父も大統領、そして父親までの三代が三人とも英国大使になっている。Henryは「単なる」作家兼歴史学者に終わったので終生劣等感に苦しんだらしい。
『The Education of Henry Adams』のもう一つの焦点はIndividualismということらしい。つまりAdams家が伝統的に持っていた個人主義的な生き方が19世紀後半のアメリカの「豚の大群が飼葉桶に殺到するような」状況の中で取り残されたという風に、序を書いたJames Adamsは言う。序は1931年に書かれているのだが、このEducationが多くの読者を持つ理由として、「(意訳)ちょうど小間使いが公爵婦人の日記を読んで胸をときめかせるように、規格主義の下僕と化した現代人はかつての個人主義的な生活を垣間見てためいきをつくのである。」と説く。これ、「19世紀の巨人(例えばフロイトやユング)」と20世紀のどんぐりの背比べを比較する議論と同工。
ところでEducationはいわば第二部で、第一部は中世の事を書いた「Mont-Saint-Michel and Chartres」とかいう本らしい。これは、西欧のある思想が一つにまとまったのがこの時期(1250-1350)で、後数百年歴史がそれに沿って展開し、20世紀は根本の思想がマルチになる転換期ということらしい。、
このところどの本にも定着せずにふらふらと拾い読みばかりしているが、J.C. Powys、Junger、Adamsと並べてみると、自分の現在の興味がどの辺にあるかを見る思いがする。3人が3様に少しずつ時代をずらして(Adamsが1838、Powysが1872、Jungerが1895年生まれ)、現代の規格化主義、大衆主義とでもいうものに反抗している。
ロビンソンは島の西南の端(p179)、普段住んでいるのと反対の端の海岸で、おびただしい人骨が打ち捨てられているのを見て、あまりの気持ちの悪さに嘔吐した。これはどうもまったくの作り話くさい。私の知る限りでは人食いをする部族でも、ある特別なセレモニーとしてやるだけである(まあこれもどこかでちらっと読んだだけだが)。それに、どうしても気になるのは、こうして「土人」の振る舞いが唾棄すべきものであることを宣伝しておけば、彼らを以下に非人間的に扱っても非難を受けないだろうという当時のヨーロッパ人の計算が透けて見えるような気がするからだ。
ロビンソンは聖書を読み出してから、しきりと船員時代の罪深い生活を悔いているが、奴隷貿易という悪行に神が怒って船を難破させた、というような発想の展開は全然ないのである。
倫理というものは、他の時代、他の文化から見れば極めて恣意的なものに見えるのだろう。
Violent
Eyeは今p36.Bullockの文章は本当にわかりにくい。しかし、どうもおもしろいことを言っているようで、わかりにくいからかえって想像力を刺激する。「(拙訳)損失を修復し、大きな時間フレームの中で分離された瞬間を解き放つために彼は存在と自然の開示に希望を託す」(p36)これはファーブル的な視点だし、私の『危機進化論』も人間に適用された場合こういう感じの見方になる。
ヨーロッパの啓蒙思想の頂点がアメリカの独立期の崇高な理想であるとすれば、その凋落がHenry Adamsによって書かれ、新しい方向への模索がJungerやJ.C. Powysによって試みられている、といえる。啓蒙時代の人間中心主義から離れ、Jungerは生物一般に、そしてPowysはさらに無生物に精神の根拠を求める。
Violent Eyeの同じくp36。「(拙訳) 我々の暴力的な世界の廃墟において、彼はもはや古典的な人類のイメージ及び伝統的な人間経験の共同体にはもうなぐさめを見出せない。」“Ruin”というのは私の好きな言葉で、実際私は自分がある文明の残した廃墟に住んでいるというイメージを持っている。そこには数々の建築材料がかつては意味を持っていたあるやり方で組み合わされているけれど、その意味はすでに役目を終えていて、私は一つ一つの材料を自分で取捨選択するのである。そこには奇妙に心の安まる自由がある。
さて、ロビンソンは私が3/16で提出した疑問にある程度答えてくれた。彼はしばらくの間、この野蛮な土人どもを撃ち殺す計画に夢中になるのだが、そのうちにふと考え直すのである。先ず彼は、こうした蛮行にもかかわらず神があの土人たちを滅ぼさなかったのに、自分が彼らを罪人と断定して処刑する資格があるのかどうか疑問を持つ。そして、つまり彼らにとっては捕虜を殺して食べるのはヨーロッパ人が牛を殺して食べるのと同じことなのだ、と思い当たる。また、「私はまだ彼らと交渉がなく、彼らは私がいることを知らず、その私が彼らを襲うことは決して正しいことではなかった。もしそれが正しいならば、スペイン人がアメリカで何百万という土人の生命を奪った蛮行も是認しなければならなかった。」(p186)スペイン人はこれで大分他のヨーロッパ人から白い目で見られていたらしく、『そのためにスペイン人というものは、全て人道的な、キリスト教的な考えを持った人間にとって、何か戦慄すべき人種となっているのである。また、スペインは、善良な人間の印であるとされている慈悲心とか、哀れなものに対する極普通な人情が欠けた人間を産する、特別な国柄のように思われているのである。』(p187)
長々しく引用したのは、18世紀初頭のイギリス人の倫理的感覚に興味があったからで、特に、自分に危害を加えていない相手を攻撃するのは正しくないというロビンソンの判断は地に足がついている。非キリスト教徒ならいくら殺しても悪くない、といった十字軍的な発想はこのころのイギリスにはなかったらしい。そして、イギリスが植民地経営に精を出して悪行の限りを尽くすようになるのはデフォーよりも後の時代なのだろう。
我々が道徳の規範としているような考え方は、そもそも18世紀のヨーロッパから来ているのかもしれない。
3/6に私が気にしていたロビンソンの銃弾についてはP184に「二挺の銃にはいずれも二個のザラ弾と、それよりも小さな、短銃用の大きさの弾を4,5個、鳥銃には白鳥を打つ時に使う大型の弾を一掴み、短銃にはいずれも四個の弾をこめた。」という記述があり、どうもこれだと弾というのは鉛か何かの丸い玉に用のようだ。短銃に四個とか言っているが、これは四発発射できるのではなく、一度にこの四個が飛び出すのだろう。散弾的な発想だ。どの銃にも複数の弾をこめているが、こんなので本当に大きな動物を打てるのか? かなり至近距離まで近づかないとあまり効果がなかったのではないか。何にしろ、何で火薬の心配をして弾が尽きる心配をしないのか、という疑問はまだ残る。火薬の方が早くなくなりそうだったから、という単純な理由かもしれないが。
3/17の最後に、我々の道徳の元をたどると18世紀ヨーロッパに行き着くのではないかと書いたことに対応することがViolent
Eyeに出てきた。「(拙訳)西欧文学の『偉大な伝統』に我々が見るイデオロギーは、イニシアティブと応答の自由を表現し、また選択と道徳的感情を表現する点において絶対的かつ完全である可能性をもった欠けることなき個人的主体というルネサンス及び啓蒙時代のイメージを使っている。」(p41)
Bullockはこうしたイデオロギーを外から見るための視点としてユンガーの著作を利用するつもりなのである。
Violent Eyeはp43でユンガーの著作を年代順に挙げている。Heliopolis(1949)とGlastrne Bienen(Glass Bees:1957)では国家と資本主義が技術の力で個人の価値観を破壊するさまをSF仕立てで描いている由。私自身、翻訳会社の倒産を期に、会社人間たちがうまく立ち回る中で個々バラバラの翻訳者が被害者とならざるを得ない状況を見て苦い思いがあるが、それでも自分が会社で働くのに比べたらまだずっとましだと考えざるを得ない。
私が最初に読んだ本(『砂時計の書』)はDas Sanduhrbuch(The Hourglass book,1954)だろう。『小さな狩』はSubtile Jagden(Subtle hunts)で1967年。
Violent Eyeのp46〜46、やっとユンガーの著作からの引用である。主人公は海に面した崖の上に立ち、下に広がる海と、崖の途中に巣をもつGullimots(かもめ?)が矢のように飛び出しては戻ってくるのを見ている。茫洋とした海と、くっきりしたかもめの飛線の対照がある哲学的対照への主人公の思いを誘導する。「(拙訳)我々に極めて直接影響を与えつつ、しかも深く隠されたスピリットの奔放な二重芝居。一方でこの芝居は意識の最高の、金属的に切れ味のよい解像度に向かい、他方で四大(地水火風)の力の野生地帯の中に自己を失う。」(p46)
例えばドイツ人の精密な技術と、彼らを駆り立てた無差別的な破壊欲。こんな感じかな。具体的な描写から哲学的な洞察を誘導するというのは私の好みの展開だ。
たとえばビデオデッキというものがある。ヘッドの周りを走るテープの位置精度はミクロンオーダーである。そんな精密な機械がわずか200ドルくらいで買え、全世界で多分数億台が稼動している。しかし多くの人々はこの現代技術の成果をただの暇つぶしに利用しているだけであって、手段の精密さと目的の痴呆性の対照が際立っている。
ここでBullockが引用しているユンガーの本はドイツ語しかないらしく、Bullock自身が翻訳している。地の文よりずっとわかりやすいから、Bullockだってちゃんとした英語が書けるのだ。ここは刺激的でプレグナントなところなので、もっと引用してしまう。「(拙訳)この恐ろしいほど抑制のない力と揺るがぬ認識の大胆さという組み合わせほど我々にとって典型的な状態は他にない。これが我々のスタイルだ。この火山噴火のような正確さというスタイルのユニークな性質が認知されるのは、多分我々が姿を消した後のことだろう。(p46)」前頁に引いたのと同じテーマの言い方だが、volcanic precision(火山噴火のような正確さ)というのがいい。ここでもユンガーは現代のこの特性を理解するのは将来の世代であろうといっている。これは私が『砂時計の書』をはじめて読んだときに感心したあの「今起きていることをかつての規準で批判するのは正しくない。なぜなら、我々は自分たちがそれをしている理由を理解していないが、将来はその理由が理解されるだろうから」といった言い回しの親類だ。
さらに引用を続けると、「(拙訳)しかし、歴史的意識によって再構築することが殆どできないようなことが多い。例えば、我々のパワーの四大的な側面と規則正しい側面とが火と水のように互いに補い合っている野性的で束縛されない様子がその例である。(p46)」この辺を読んでいて思うのは、我々が意識の焦点を合わせやすい領域では物事がますます精密化していき、それに伴って背景に押しやられる領域ではますます暗闇の中で諸力が合わさった怪物が成長してくるという、私が良く近代科学の批判に用いた論理である。引用をさらに続けよう、「(拙訳)この世界を旅する我々は、ここでは恐るべき大火で赤々と燃え上がる巨大な都市を見、またかしこでは建設者たちが巨大な建物の基礎を据えているのを見る。あたかも夢の中で経験するような深く、押しつぶされるような苦難のイメージが、迅速にスピリットの悪魔的な不死身性に席を譲る。このスピリットは混沌を自らの光と稲妻と結晶のような形象のもとに支配する。」(p46)
私はけちだから浪費は嫌いなのだけれど、この世界には信じられないほどの浪費の傾向がたしかに内在している。そしてそれはユンガーの指摘するようにこれまた想像を絶する効率の良さと皮一枚隔てて共存しているのだ。人間の身体を良く見ればその設計の精密さ、効率には感嘆するしかないが、多くの場合我々はその能力をただ生存するという、目的ともいえない目的に(しかもしばしば失敗を伴いつつ)利用するだけで、生存に工夫を凝らす必要のないものはますますもって何をするでもなく一生を終えるのである。
我々は一方では建設し、一方では破壊し続ける。そしてもっとつらいことには、建設フェーズでは建設の意味を信じ、破壊フェーズでは破壊の意味を信じなければとても耐えられない。建設時に差し迫った破壊のことを考え、破壊しながら今破壊している対象の意味を認めざるを得ないとしたら、我々の存在は深く分裂してしまう。ユンガーはしかしこの状況に絶望している風には見えない。「(拙訳)しかし、今ここで海面のイメージが虫けらのような鳥の機敏な動きと合体するように、これら二つの偉大なテーマが近寄って融合するような場所を想像することも可能である。そしてこの調和の中に我々の仕事のうちの形而上学的な部分が含まれているのかもしれない。(From Ernst Junger, “Aus den Strandstucken 3, “Das Abenteuerliche Herzs --- zeite Fassung [Samtliche Werke IX, Stuttgart: Klett-Cotta, 1979], pp.258-259: translated by Bullock)
このような融合が我々の心の中で実現できるのだろうか。私はかつて、人々の心は戦争のときと平和のときと別のモードで働き、その二つが統合された思想は少なくとも我々の殆どの心の中では存在しない、というふうに考えたことがある。
何かを作っても、結局はそれが失われるだろうことを思うとむなしくなる。このノートだって、せっかく書いてもなくしてしまうかもしれない。家が火事にでもなったら昔の日記なんかもみんななくなる(しかしその一方で、たとえ物質的にはなくなってもエッセンスは残るのではないかと感じている。)
『The Glass Bees』(Ernst Juenger, The Noonday Press, N.Y. 1960)。3/19の記述に出てきたやつである。たしかにSF調。退役軍人のRichardが金に困ってかつての戦友(Twinings)に仕事の世話を頼む。そしてちょっとやばい仕事を引き受ける羽目になる。Zapparoniという発明家がロボットを作る会社を作って大成功しているのだが、Zはロボットつくりの技術を習得した技術者を一人も手放したくない。しかし、いくら高給でやとっても辞めた人間を人間を裁判で訴えて懲らしめようとしても、どうしようもないケースがあり、そこをRichardにやってほしいわけだ。Rは軍人時代の思い出で生きているような男で、ビジネスは大きらいだし、一生懸命国王のために尽くしたつもりなのに立ち回りがへたでいつのまにか反逆罪の前科持ちになっていた。こんな仕事では戦友たちにも総すかんを食いそうだと思うが、家ではTeresaが吉報を待っている。貧乏なのはRの責任なのに、、Tはいつも自分がRの足を引っ張っていると信じ込んでいる。RはそんなTの待つ、電気も電話も料金不払いで止められている寒いアパートに手ぶらで帰るのにしのびず、この仕事を引き受けることにする(実はこれ5月なので、寒いというのは少し前のことになる)。話の途中で士官候補生だったころの厳しい教官や週末の町での大騒ぎのことをしきりと思い出している。彼は人々が今や道義心をまったく失ってしまったことを自らにぐちり、きびしいけれどみんなに尊敬されていた教官をなつかしむ。
ところでZのロボットというのはものすごく小さいのが特徴で、例えばアレルギーを起こす花粉の一つ一つ空気中から取り除いてしまうロボットなんてのまでいる。また、Zはロボットを使って超リアルなファンタジー映画を作り、子供たちに大人気である。
妙に人工的なこの設定はル・クレジオの『巨人たち』(立ったかな?)を思い出させる。クレジオのはたしかスーパーマーケットを舞台にしていて、妙に離人的な雰囲気をかもし出していた。
Glass Beesはおもしろくてもう58ページまで読んでしまった。Richardはどうも前の戦争で騎兵、今度のでは戦車のインストラクターだったらしい。世の中の変化についていけない彼は敗北主義の刻印を押され、いつのまにかかつての教え子が上官になっていく。
乗馬の教官だったWittingrewという男は手綱さばきが抜群で、女性にも持てて、彼のアイドルだったが、やがて数年してRichardはWが市電の車掌になっているのを見て心を痛める。しかしWはかつてより今の仕事の方がずっと重要なのだと強調し、アパートにもあれほどたくさんあった乗馬競技のトロフィーなどもなく、醜女の妻と暮らし、デスクワークへの昇進だけを望む生活である。それでもRは自分よりWの方がまだ現実を見る目があったのだと納得する。もう一人、Lorenzという青年は昔の農業主体の世の中への回帰を夢見ていたが、ある日騎兵時代の仲間と飲んでいるときに、突然窓から飛び降り自殺する。Rはひどいショックを受けるが、時代の変化を受け入れられないのならこれも勇気ある解決法だと考え、戦争以後の自分の生活もゆっくりと飛び降りているようなものだと自嘲する。
サンフランシスコの紀伊国屋で購入した本。
『新源氏物語 霧ふかき宇治の恋(上下)』(田辺聖子、新潮文庫)。この田辺源氏は、源氏が亡くなるまでのをデンバーの図書館で借りて読み、大変おもしろかった。著者は「自分が読みたい恋物語が見つからないから自分で書く」という大変正しい態度で書いている。
『太平洋探検史』(エティエンヌ・タイユミット、創元社)古い本の挿絵をふんだんに使っていておもしろそう。原本はフランス語らしい。これはシリーズになっていて、次の奴隷の話も含めて10冊ほど並んでいた。荒又宏の『地球暗黒視』で太平洋の諸島がヨーロッパ人のイメージに合わせて改変されたことを知り、ちょっと興味を持った。例えば多くの島に白砂やヤシが持ち込まれたらしい。
『奴隷と奴隷商人』(ジャン・メイエール、創元社)は今読んでいるロビンソン・クルーソーに、ロビンソンが一時ムーア人の奴隷になったり、あとで奴隷貿易を試みてそれが元で孤島に難破したりするので興味を持った。述べ1500万人もがアフリカからアメリカに連れてこられ、そのうち10%が途中で死亡、奴隷船の乗員も30〜40万人は死んだというからすごい。
途中で反乱を起こして白人を皆殺しにしたはいいが、操船法を知らないので漂流し、ただ一人が生き残ったという話もある。これは実話らしい。
18世紀ごろ「奴隷になった黒人たちはアフリカに残っていても戦争で彼らを捕虜にした連中にどうせ殺されていただろうから、奴隷として生かしておいたのは悪いことではない」という反論があったらしい。
『史記』(貝塚茂樹、中公新書)は紀田順一郎の『世界の書物』にあったし、うちにも史記列伝(二)が岩波文庫で買ってある。けっこうおもしろそうだがやや長ったらしい。この『史記』は碩学貝塚氏が書いたもので、序文には抄訳として使えるとあるので期待できる。『史記』のオリジナルはそれだけで広大な世界になっているらしい。
『オルテガ』(色摩力夫、中公新書)はウナムーノの本を読んだときにちらっと出てきて、現代における「大衆」という概念を哲学した人らしい。
『生と死のウィーン』は世紀末のウィーンの感じを簡単にまとめてあるのではないかと期待して。このころのウィーンとか+はとかは現代の主な思想の発祥の地であるらしい(精神分析とか現代の物理学とか)。
940329 Glass Bees(Zapparoniの家)
Glass Beesはp140まで来ているが、メインストーリーは大して進行していない。この本はp149までしかないので、殆どの部分はRichardのさまざまな回想で占められているといってよい。
Zapparoniの自宅の敷地には門がなく、訪問者は地下鉄のようなもので敷地内に入るのである。調度品は落ち着いた、趣味の良いもので、絵なども見せびらかしでない、ゆっくり楽しめるものだ。RはZが単なる成金ではないことを知る。同時に、読者はこの騎兵でタンクインストラクターだった男が芸術の鑑賞眼を備えていることを知る。
Zが現れる。眼光の鋭い老人である。Zは2,3の質問でもうRの「敗北主義」を見抜いてしまう。(最もこの辺の会話は抽象的でよく理解できず。)ZはFillmoreについてRに質問する。Fはかつての騎兵仲間だが、大変な秀才であると共に断固として出世主義を貫き、能吏としてどの政府にも重用され、今は回顧録を出版して政界への進出を狙っている。Fは回顧録の中で、わが軍が敗北したある戦闘において、敵が白旗を振ってこちらを油断させ、近づいた兵隊を卑怯にも撃ったと非難していた。Zはこれが本当かどうかRに尋ねる。Rは「負け戦のときは部隊にまとまりがなくなり、一部の兵は降伏しようとし、他のものはまだ戦うつもりであったりする。」と自分の見解を述べる。ここでもZはRの敗北主義を鋭く指摘する。これはつまり、徹底して党派的になれない弱さということらしい。Rは戦うことそのものは好きだが、敵同士が対等の力を持っているときでないと気分がよくないのである。ところが、勝つためには弱者をさらにたたきつぶす決断力が必要とされる。また、Rにはすばやく形成を見極めて勝者の側に乗り換えるといった芸当もできない。
Rはこれでもう自分は不採用だと観念するが、Zは「少し外で待っていてくれ」といい、また後で会話を続けるつもりらしい。
Rは庭に出る。庭といってもちょっとした農園という感じで、農夫がくわで耕したりしている。木々があり、小鳥もいる。蜜蜂の巣もある。あずまやまで歩いて腰をおろし、よくみると変な蜂がいる。そういえばZは別れ際に「蜂に気をつけろ」と言っていた。あずまやへの道でも、Rの足跡が砂の上についてもすぐ消えてしまう。自然に見えてもここにもZのしかけがいろいろ作動しているらしいのだ。
Glass Beesを昨日読了した。英語の本としては異例な速さで読み、一週間しかかからなかった。
Richardのこの敗北主義は妙に共感をおぼえる。彼も私もバランス感覚を大事にしようとするので、一方的な関係は落ち着かない。Rは子供のころグループ同士のけんかで相手グループの少年が一人でいるところをみんなして襲ったとき、その少年が鼻血を出したのを見て(これも最初は彼でなく別の少年が指摘したのだが)リーダーの少年を止めようとする。するとリーダーは起こって仲間に命じてRを袋叩きにするのである。一人置き去りにされたRは今度は敵のグループに見つかり、その中には彼が助けようとした少年もいたが、その少年は「あいつだ、あいつがなくったんだ!」とRを非難し、Rはここでも袋叩きに会う。何ともやり切れないが、ありそうな話だ。
いろいろな本が気になって、どれを読み、どれについて書くべきか迷う。『オルテガ』はサンフランシスコで買ったのだが、最初の方を読んでみるとおもしろそう。大衆が現代の社会構造を自然なもの、何も手を加えなくても存続するものとみなしているというのはたしかにそうだろう。また、どの社会でも少数のエリートが多数の大衆を指導していくものだというのもうなずける。現代は危機の時代、つまり「二つの『信念』の体系のはざまにあって、いずれにも落ち着かぬ過渡的状況」(p20)といい、さらに「一つはその直前まで有効であった生の体系であり、もう一つは萌芽として現れてくる、別の新しい生の体系である。もっとも、後者はいまだ特定されず、漠として混乱した状態にあって意識すらされぬ場合が多い。」(p20)この辺、私の危機進化論みたいだ(危機進化論では新しい種が解決をもたらす)。ユンガーの観点とも一致する。オルテガは1883年にマドリッドで指導的な新聞社の編集主幹の息子として生まれている。母はその新聞社の創業者の娘。
Glass Bees。Richardは蜜蜂を観察しているうちに、人工の鉢が混じっていることに気付く。普通の蜂よりも大きく、しかも体が透明でガラスみたいである。人工蜂は蜜蜂よりももっと効率的に蜜を吸い取って、巣に持ち帰る。よくみると灰色がかった人工蜂もいて、これらはどうもモニターらしい。RはZが何でこんなものを作らせて自分の庭に放しているのか推量しようとするが、見当がつかない。趣味だとも考えにくい、というのはZはロボットの登場する映画をどんどん作っていて、遊び心はそっちの方で満たされているだろうからだ。Rはこうして、あずまやに置いてあった双眼鏡でZの庭を観察しながらも、今度Zが来たら何を言えばいいのかと思案している。ところがそのうちに彼はとんでもないものを見つけてしまった。何と切り取られた人間の耳が落ちている。それも一つや二つではなく、何十という数である。はじめRはこれが本物の人間の耳だと考え、猟奇殺人事件に巻き込まれたと思ってぞっとする。しかし、そのうち、これもZの技術者の作品だろうと考え付き、勇気を出してそこまで行き、一つ拾い上げてみる。その間も灰色の人工蜂は彼の近くを飛んでモニターしている様子。よく見るとこの耳はあまりにも真に迫っていて、これはやっぱり本物かしらと怖くなったRは心の平衡を失い、近くを飛んでいた灰色の人工蜂をそこにあったゴルフクラブでたたき落としてしまう。そしてたちまち公開する。第一、この蜂一匹の値段は多分RがZに一生雇われてもらう給料よりも高いだろう。これで自分は破滅だ、とRが観念したところへ、Zがまた登場する。ZはRが試験に不合格であったことを継げる。ことの起こりは人間そっくりのロボットの耳を作る技術者が、仲間の技術者との仲たがいの末、ロボットの耳を切り取って会社を飛び出してしまった。諸外国ではZのロボットの成功をうらやんでいるからこの男はすぐにどこかの会社に引き取られることだろう。そうなる前に何とか始末をつけたいとZはRを試したわけだ。
しかし、とZは言う。Rの発言に見られたバランス感覚と戦車のインストラクターとしての実績が示す技術への目が役立つ職がある。技術者たちはみんな偏屈な天狗ばかりでしょっちゅうアイデアの優先権のことで争ってばかりいる。ついてはRに仲裁役を頼むというのである。
『オルテガ』で言うところの危機の時代、すなわち2つの信念のはざまというのが予防注射ぜひ論争に反映されている気がする。予防注射を推進する人々が前提としている考え方は、自然のものはだめ、人工のものがいいという考え方だ。そして、このところ強まっているのはそれをひっくり返して、何でも自然のが良くて人工のはだめという考え方である。しかしこれだけでは単なるアンチであり、新しい考え方の芽生えとはとてもいえぬ。
昨日考えたことに関する記述が『オルテガ』にある。長いが一説全部引用する。「近代以前の世界では、科学は第二級の、つまり二流の精神活動であった。何かが決定的な真理、実効的な真理として認められるには、一科学の特別の分野で真理として現われるだけでは足りなかった。第一級の、一流の精神活動、つまり信仰の分野で認められなければならなかった。近代文明は自然科学と科学技術とによって代表される世界である。それはデカルト以来一貫して流れている近代合理主義の所産である。科学は、第一級の、一流の精神活動となったのである。そこで真理として現われれば、文句なくそのまま真理である。それが自明なものとして、深遠の体系に組み入れられるまでに、たいした時間はかからない。」(p45)この記述の前に、コペルニクスの発見が学問上の大問題として扱われるには五世代後のジョルダノ・ブルーノを待たなければならなかった、という一節がある。
つまり、現代では、オカルトや自然復帰主義でいくらがんばっても人々の信念を揺るがすところまで行かず、何らかの科学理論を待つしかないということなのだろう。そして、その理論は一方正当な科学理論であると共に、科学万能主義を掘り崩してしまう種をやどしたものになるはずである。たとえば「生物は決して未来を見ることはない」という危機進化論的観点は科学として、スキナーなどの支持を得られると同時に、科学という人間活動そのものに大きな疑問を投げかける。もうひとつの可能性は精神の働きが自然科学的に解明されすぎて、デカルトが想定した「我」が崩壊してしまうことだ。
ロビンソンは浜辺で土人に食べられそうになって逃げ出した捕虜を救い出す。これがフライデーである。フライデーもやはり人食い人種でかつてはこの島に来て逆の立場で人を食ったことがある。ロビンソンはフライデーをキリスト教徒に仕込む。フライデーに「なぜ神は悪魔の存在を許すのか」と質問されて困ったりする。多分これは18世紀のイギリスの家庭で子供が親に良く聞く質問だったのではないか。
『オルテガ』は著者の書く流れと私の考えがどうも平行しているようだ。3/31にアンチだけではだめだと書いたがp65にこんな記述がある、「危機に対処する一つの習性・・・現在ある価値体系を「裏返す」という手法である。・・・(『ガリレオをめぐって』)」もう一つの手法は思い切った単純化ということで、例としてデカルトが挙げられている。
いろいろな本を読み出しては、対して進まないうちに他のに目移りするので、我ながらもう少しきちんと読み終えるようにしたらどうか、と負い目を感じていたのだけれど、読書ノートを読んでいると、私の読み取っている内容には明らかにつながりがある。本が私自身の思考を刺激し、形を与える役目を果たしているのであれば、特に最後まで読む必要はないわけだ。
今日はCompuserveの百貨時点サービスでカントの哲学の紹介を読んだ。2ぺーじにまとめてあってわかりやすい。カントは合理主義と経験主義の統合をめざした。「三角形には三つの辺がある」というのは三角形を見ればわかるので分析的判断、「三角形は幾何学の発達の初期から知られている」というのは三角形そのものをいくら見てもわからないので統合的判断と称するらしい。
3/31で触れた予防注射の話なんかに使えるかもしれないが、とりあえず私の今のテーマにはあまり関係ない。
以前にカントの『純粋理性批判』をちらりと読んだがややこしいしとても感心をもてなかった。しかし、カントは彼なりに時代の人々を引き裂く難題に答えようとしたのだろう。
今日もまた、人々は堕胎、予防注射などの問題で分極しており、流血か抑圧の道しか残されていないように見える。
ロビンソンはフライデート2〜3年楽しいときを過ごした後、再び土人たちから捕虜を救出することになる。今度は30人くらいからなる土人の主集団を攻撃したのだが、3/17に記したような倫理的逡巡を破ったのは、捕虜の一人のヨーロッパ人であったためだ。ありったけの火器をフライデーと一緒にぶっぱなし、さらに縄を解かれた白人もがんばって、土人は4人が舟で脱出したほかは全滅する。もう一人の捕虜は何とフライデーの父親で、フライデーは狂喜する。
この白人はスペイン人なので、ロビンソンはフライデーの通訳で彼と話す。スペイン人も土人の言葉を習い覚えていたからだ。彼によれば対岸には十数人のスペイン人がフライデーの見方の部族と共に暮らしていて、客人として扱われているが、変える望みもなく、絶望しているという。そこでロビンソンは、彼らも救出してヨーロッパに戻る計画についてスペイン人に話すが、このとき、「自分を裏切ってスペインに連行し、異端審問にかけるようなことをしないと約束してほしい」と迫っている。どうやら、大西洋上でイギリス人がスペイン人につかまった場合、前途は暗いらしい。英西戦争がたしか17世紀だし、この話も17世紀後半ということになっているから、そのためだろう。
『Glastonbury…』(800ページの少し後)は今、Will ZoylandがMs. Pippardという女性と浮気しているところ。彼はNellと赤ん坊(実はSamの子、Willはこの子を良くかわいがり実際間の強いこの子をなだめられるのはWillしかいないことが良くある。NellはWillが秘密を知らないと思っているが、Willは知っている)にベッドルームをあけわたして客間のソファに寝ていて、そのためにNellはますますWillに頭が上がらないのだが、WillはこのソファでMs. Pippardと浮気しているのだ。彼女はメイドのMrs. Pippardの娘で、母親の策略でWillに引き合わされたのだ。美人ではないが、この上なくすべらかな肌をしたこの娘との情事の後、余韻を楽しみつつ彼女の腰を抱いていたWill。おりからの月光が2人の体や部屋のちょうどに光と影の模様を作っている。ここで赤ん坊がひどく泣き出し、NellがWillの助けを求めて呼ぶ。Willは従順に従おうとして立ち上がるが、向こうではMrs. Pippardが何とかうまくなだめたようだ。
『奴隷と奴隷商人』、初めの方を絵を見ながら楽しんでいる。17〜19世紀、三角貿易といって、ヨーロッパからガラス玉などの安っぽい工芸品をアフリカに持っていき、そこで黒人奴隷を買い、アメリカでそれを売ってコーヒーとか砂糖とかを買い、ヨーロッパに戻ったものらしい。一回りするのに数年かかるが、後悔が失敗する確率は10〜30%程度でわりと低かった。この航海は当時のイギリス人にとって立派な商業行為で、立身出世の方法とみなされていた。奴隷の売買についての良心の悩みはあまりなかったようだ。これはロビンソンの記述とも一致する。
そもそも、人間の神に対する関係が奴隷のようなものだったから、自分が奴隷を使うことも不自然ではなかったのかもしれない。人間が自らを世界の主人公と考え始めると、奴隷制が不都合に見えてくるのでは?
4/3に引き続き、Compuserveの百科事典で哲学者をあさる。ハイデッガー、オルテガ、ライプニッツ、ブーバーの項をMS Wordファイルとして落とした。ブーバーは「我VSそれ」と「我VS汝」の関係を対照していて、私の主観性の科学の観点からみても見逃せない。ブーバーは「我VS汝」の関係が理想的に成立するのは「汝」が神であるときだけだ、といっていて、これにはうーむとうなるしかない。私は一度だけ本気で神に祈ったことがあるが、パワフルな経験であった。Powys直伝の映し見の術(幸福の科学ノートを見よ)にこれを応用すると、そこにあるボールペンやおもちゃのボートや箸に語らせるということになる。神はどんなに一見つまらないものにも宿っているのだから。
ロビンソン、ついに読了。最後の方はあれよあれよという間に話が進む。ロビンソンはフライデーの父とスペイン人を説得して対岸のスペイン人たちの説得に当たらせるのだが、そうしているまにイギリスの船がボートを出して浜につける。用心深いロビンソンは第六感に従って隠れてみているのだが、案の定それは船で反乱を起こした水夫たちが船長と船客と一統航海士の3人をこの島に置き去りにしようとしているところだったのだ。ロビンソンはフライデーと一緒に3人を救出し、すったもんだのあげくその船で英国に帰る。ところが例のスペイン人たちはあっさり置き去りであり、島に残した反乱水夫3人によろしく頼むとことづけただけである。
彼の財産を預かっていた最初の船長の妻や彼がムーア人から逃げているときに拾ってくれた船長も生きていて、ブラジルの農場仲間も28年前の約束を履行し、ロビンソンは大金持ちになる。この辺の彼らの倫理は、一航海に数年かかり、リスクも大きい三角貿易の当事者たちの倫理を反映したものだろう。何年前の約束でも守るだけの倫理規制がなければそもそもこんな航海のために乗組員を雇い、投資をつのることが不可能だったに違いないから。
ロビンソンは結局ブラジルには帰らないのだが、その理由として、島で聖書を読んだ後ではカトリックとして生きることに疑問が生じてきた、という。イギリス本国ではもちろんカトリックではなかったが、ブラジルはポルトガルの支配下なのでカトリックに改宗する必要があったらしい。彼もはじめてブラジルで農園を始めたときは特に考えずに、カトリックに改宗したようだ。こういう便宜的な改宗は当時もあったということだ。しかし、ブラジルにいてカトリックへの改宗を拒めば異端審問の憂き目に会うものらしい。
『オルテガ』(p90)、17世紀初め、ヨーロッパ各国は一種の鎖国状態になったという。国のリズムとして外に打って出るときと内省的になるときがあるというのだが、鎖国といえば日本だけと思っていたので意外だ。
今CU図書館から借りているユンガーの本は14日までに返さなければならない。CUの本は2ヶ月まで借りられる。今度はOrtegaの本一冊、Whiteheadの本一冊、Buberを一冊、Kantを一冊、Heideggerもほしいかな。Jungerの『Marble Cliff』も読んでみたいし、Henry Adamsの『Mont-Saint-Michel and Charters』も見てみたい。
オルテガの考え方はわかりやすい。「現代の危機が克服されても、近代合理主義はそのまま残るであろう。ただし、新しい信念の体系の中では、中心的な位置から退けられて、周辺の二次的な位置に押しやられるであろう。」(p129)このすぐ後に、近代合理主義が成立した後のキリスト教の位置をこれになぞらえている。この辺は10年前に私が中村君や永山氏に言っていたことだ。
「官能的人間の主要な器官は、網膜、口蓋、触覚などである。まったく同様に、瞑想的人間は、「概念」という一つの器官を持っている。概念は深さを会得する器官である。」(p123)
概念に官能的に反応する人間のことはなんと言えばいいのか。
Waldenbookで子供を遊ばせながら本を見た。哲学というカテゴリーがないということに気がついた。古本屋なら必ずあるのだが。
『オルテガ』。科学が二義的なものになるという場合、何かが科学の権威に挑戦して打ち負かすというのではなく、人々は同じ尊敬の念を科学に対して持ち続けながら、いつのまにか科学研究の作業に従事する人の数と時間が減ってきて、あるとき気がつくと科学というマシンがいたるところでさび付いて、殆どの場合役に立たなくなっている、こんな感じになるのではないかと私は思っている。
近代合理主義の「静的」な根本前提というのが私には気になっている。この辺も『オルテガ』で触れている。「パラメニデス以来のエレア派は、『あるものの本体を探求するとき、固定された静的な実態を、即ちその存在がすでにそうである何ものかを、すでにそれを構成する何ものかを、探求するものである了解している。』つまり、不変の実体、『常に同一なるもの』であった。」(p132)
実生活では、昨日確かに思えていたことも今日はひどく頼りなく見えるというのが自然な状態であり、巌のようにがっしりしているとみえる科学的真実も、実は多数の科学者の不断の習練によって支えられているのであり、その努力が止めばふらふらと動き出すものなのだ。『オルテガ』の引用を続ける。「しかし、現実的なものの条件として、それが常に同一の何ものかであることを要求するのは、『巨大な恣意』ではないだろうか(『体系としての歴史及びローマ帝国について』)。他方、ヘラクレイトスは万物流転の思想を唱えた。ものはすべて移り変わる。厳密に言えば、常に同一の実体ではなくて、『成り成りて成る』ものである。しかし、ヘラクレイトスの企図も、当時の世の中では、知的技術の不足のために失敗せざるを得なかった。今や、われわれは、近代合理主義の動揺を目の前にして、ヘラクレイトスの挫折した発想まで戻る必要はないだろうか(歴史的理性)。オルテガは言う。『今や、ヘラクレイトスの種子が大きな収穫をもたらす時期がやってきた』(『体系としての歴史及びローマ帝国について』)と」(p133)
ヘラクレイトス流の万物流転という考え方から出発するとき、知的活動の働きも違ってこなくてはならない。危機進化論で、人間は本質的に先が見えないという結論を受け入れた場合と同じように。
CUから借りた本5冊。
I and Thou, Martin Buber
Revolt of Masses, Jose Ortega Y Gasset
Man and Crisis, Jose Ortega Y Gasset
The Philosophy of Kant
Buberの「我—それ」関係と「我—汝」関係の対照は私の主観性の科学のテーマにもろに結びつくので、一度のぞいてみたかった。百科事典の簡単な紹介でも「究極の我・汝関係は神との間でしか成立しない」というeye opening remarkがあったので、果たして本の中にそれ以上のインパクトが見つかるかどうか。
Revolt of Massesは『オルテガ』でかなり紹介されている。3/30の記述でも書いたが、大衆が社会というものを自然に存在するものとみなし、その維持に莫大な努力が必要なことを忘れている、というところは私自身の身の回りの政治の見方を痛く突いている。
自然に存在するものと人の努力によって人工的に支えられているもの、という区別はしかし、私の哲学から見ると頼りないものだ。主観と客観のグレーゾーンに入るとこういう区別は意味を成さなくなるから。それに、オルテガの哲学からみても、いったん「信念」として内在化した行動様式は特にそれ以上の人工的な操作なしに存続するのではないだろうか。
『オルテガ』読了。著者の色摩力夫はこの本でなかなか良い仕事をしたと思う。よくこなれていて、著者のオルテガに対する思いいれも快い。本文中、しょっちゅうオルテガと著者が混然としているようなところがあるのも、いちいちいつも「オルテガは・・・と言っている」とやられるより感じが良い。この人、外務省の役人で88年の出版時には駐コロンビア大使である。あとがきで、オルテガ思想との格闘が30年に及びと振り返っている。
知識人であったが政治にもかかわり、結局は失意のうちに去らねば成らず、さらに9年間の亡命生活を余儀なくされたオルテガは、その後さらに亡命したことを非難されている。効したオルテガの運命と、やはり政治にかかわりながら実質的には力がなく、評論家的位置にとどまらざるを得ない外務省という組織に属する色摩氏の間に引力が発生したとしても不思議はない。彼は1955年、オルテガの没年にスペインに留学したが、整然のオルテガをみる機会はなかったという。
オルテガは政治に関して多岐にわたる味のある発言をしている。「例えば、現代国家の通常の機能は何であろうか。“国家は危険の状況に対処するためと、物事をうまくやるために生まれた。”、つまり安全保障と高度の行政サービスである。しかるに、“国家の何でも規制する傾向は、危険の状況が消滅しても、その危険の印象を恒久化し”がちである。また、“国家が、今日福祉国家として示しているこの優しさは感動的である。・・・しかしその結果は個人を窒息させるような脅威となっている。」(p170-171)
この「危険の状況が消滅しても・・・」というところは予防注射論争に当てはめるとちょっと怖い。伝染病が流行するたびに予防注射を導入し、そのまま無期限に続けるのだとしたら、注射の数は増すばかりとなる。
福祉が大きな問題であることも確かである。Welfareで暮らせるし、働けばWelfareを減らされるという状況は、ボーダーラインにいる人々を押し上げるのではなく、押し下げる作用を及ぼす。といってWelfareがなかったとしたら文字通り食べていけない人々が続出する。とくにいったん制度化されたWelfareを中止することはきわめて難しい。